アイデンティティ・続

さて昨日の続き。稚拙な文章で申し訳ないとは思いつつも、来る入試に備え自分の考えを文章としてアウトプットする練習も兼ねてしばらく気の向いたテーマで書き綴りたいと思う。

 人間がアイデンティティを身にまとうのは何故だろうか。その理由は前述した通り、他者に対して自分の枠を示し説明をするためだ。そして、1度獲得したアイデンティティは永久にその人の内部に存在し続けるかというとそうとも限らない。
 例えば、高校から大学に進学すると周囲の人間が変わり、新たなコミュニティに属することでいままでとは異なる環境に属することになる。その新しい環境でいままでの自分のアイデンティティが肯定されることもあれば否定されることもあるし、さらに言えば他者から刺激を受けることで変容する可能性も秘めている。マーシアによれば、アイデンティティの状態は危機と積極的関与を経験したかによって分類でき、その両方を経験することでアイデンティティ達成に至り、さらに一度獲得したアイデンティティも常に変わり続けるとしているが彼女については不勉強なのでここで積極的には触れないで置く(もう少し勉強したうえで自論の補強を出来ればと思う)。

 新たな環境で刺激された人間が、その刺激を肯定的に捉え自分に取り込んでいくか、否定的に捉え自分のアイデンティティを守ろうとして頑なになるかはその人次第だ。そもそもアイデンティティを肯定される、否定されるというのはどういうことであろうか。例えば、自分は勉強ができると思っている人が、中学から高校へ、もしくは高校から大学へ進学したときに受ける刺激について考えてみると分かりやすいかもしれない。おそらくたいていの人は周囲の人間が自分をよりも勉強ができるという事実を目の当たりにするのではないだろうか。そもそも同程度の学力を持つことが予測される集団において自分もその一員だと思っていたにも関わらず、実は自分は劣っているのではないかと思うことは、いままで自分は勉強ができる人間だとしていた枠が揺らぐこと、つまり否定されたことになる。
 
 ここで刺激、つまり周囲の人間が自分よりも優れているという事実を、肯定的に捉えるか否定的に捉えるかという話になる。肯定的に捉えるとは、“刺激”に刺激され自分も頑張らなくてはと奮起して勉学に取り組むことを指し、否定的に捉えるとは、自分は高校の時は勉強ができたのだ、○○という模試では全国何位だったという風に、これまでのアイデンティティを守るために周囲の人間と現在の比較をされることを恐れ、過去の“思い出”によってアイデンティティを補強するようなことを指す。また変容する可能性についても触れたが、それはこの例で言えば、ある分野では周囲の人間よりも劣っていても、この分野では自分の方が優れているなど自分の活躍の場を限定することで周囲との共存を図ったり、勉強ではなく、あるスポーツができるというように積極的に自分の活躍の場を広げていくことを意味している。

つづく