アイデンティテ最後

 さてだいぶ時間が空いてしまってが、今回こそ最後まで書ききる予定。
 それはそうと、以前からこれを読んでいる変な人たちはさておき検索とかで飛んできているひとがいることに最近驚いている。就活+アイデンティティのワード検索でこのブログがヒットするらしいということに驚きを禁じ得ない。なにも得るものがなくその人は立ち去ってことだろう。いやほんとごめんなさい。特に先日書いた政治の話題はだめですね、やっぱり不勉強な分野に踏み込むのはやめましょう。

 というわけで本題。
 前回の終わりは、なぜアイデンティティを説明する際に、「自分で理解する自分という存在」ではなく「他者に説明するためのもの」と先に定義したのかについて考えてみるというところで終わっていた。
 例えば、無人島に漂着した人、まぁ自分でもよいが、その状況を思い浮かべてほしい。その人にとってアイデンティティは必要だろうか。そんなことより生きるために必死で考える余裕がないという反論はとりあえずおいておいてほしい。自分一人という状況では自分という人間の枠を規定する必要がないので、アイデンティティというものも必要がないのである。ここで注意してほしいのは無人島の例が、単に一人で暮らしているとか、あるいは引きこもっていて誰とも会わないなどという人とはまったく状況が違うということだ。一人暮らしをしているとはいっても、当然日常生活のなかで誰かと会うであろうし、引きこもっている人でさえ、周囲に人はいるはずでその周囲の人間(主に家族かもしれないが)にどう思われているかということは考えているはずだからである。つまり、世界の大半の人は必ず生きていくうえで他人と接触しているのであり、そこにアイデンティティが必要とされるのである。
 
 さらに、アイデンティティの形成や開示の話題で、“積極的な関わり・消極的な関わり”ということば用いたが、その点についても触れておこう。積極的な関わりの必要な場として、正社員を例としてあげたが、ほかにも高校・大学では部活・サークルなどがあるだろう。今回は仕事を例として話を進める。仕事に積極的に関わるということは、「自分はこういう能力があり、こういうことができる人間だ。反対にこれは苦手で、これはあまりやりたくない。」という新たなアイデンティティの形成の時である。これら長所・短所が初めて気づくものの場合、いままでのアイデンティティを更新する必要があり、それが合致しないときに人は戸惑いを覚えるだろう。それを新たな自分として受け入れる必要があり、この時期はアイデンティティが大きく更新される時である。いわゆる5月病もその一種ではないだろうか。「新たに参加した集団の人間関係になじめず・・・」という説明が一般的であるが、人間関係とは自分の枠がどこまでであるかをつかむこと、つまりアイデンティティのことであり、新たな集団でも自分のアイデンティティの更新に戸惑っていることである。たまに社会人2年目でも5月病にかかるというニュースを目にするが、それは当然のことで、部下ができるという新たな集団状況のなかで再びアイデンティティの更新が必要になるからである。
 では消極的な関わりはアイデンティティの形成に影響をしないのであろうか。答えはイエスだろう。なぜなら、そもそもその場において、自分のアイデンティティを開示していないのだから、アイデンティティが肯定されることも否定されることもないだ。そうした場は身体的には参加しているが精神的に参加しているとはいいがたい。

 最後に、アイデンティティの形成・維持に最も重要と考えられる“重要他者”という概念を考えて終わりにしたい。第4回の時の文を少し引用したい「(前略)・・・自分という人間がその集団において居場所を持つには誰か一人でも認めてくれる人がいて、その人とのつながりがなければ、アイデンティティ維持の危機を迎えてしまう。」この“誰か一人”にこの時は深く触れなかったが、この“誰か一人”はだれでも言い訳ではない。わかりやすく言えば「この人にだけは本当の自分というものを理解してほしい」という人のことだ。ずっと同じ人であるとは限らないし、例えば、親・兄弟・恋人・配偶者のように近しい人である場合もあるだろうし、たまにしか会わない友人かもしれない。第4回の文によれば、出来ればその“重要他者”は同じ集団にいることが望ましいが、そうでない可能性も高い。その場合には集団においてアイデンティティ維持の危機を迎えた時にすぐに相談できる近いところにいることが望ましい。前回述べた再評価の話もそれが“重要他者”によってなされるならばそれほど望ましいことはない。
 問題は、“重要他者”にも受け入れられなかった場合である。それほど悲惨な状況はなく、それはアイデンティティ維持の危機どころかアイデンティティ崩壊の危機である。昔の同級生と会ったときの例のように、たとえ以前はお互いのアイデンティティについて深く理解しあった仲であっても、あまりに久しぶりにあったのでは、いきなり理解するのは無理であろうし、維持の危機に瀕している状態を回復させられるは考えにくい。そのため、そうした状況をさけるべく、常にその他者に対しては自分を開示し続けておくべきである。

 結論として、アイデンティティとは「自分の枠を規定して他人に説明するものであり、自分で理解する自分自身のことであり、その形成・維持には重要他者の存在が深くかかわっていて、集団への積極的関わりによって、維持の危機を迎えることもあるが、更新されていくものである。」と言える。
 
 以上とりあえずこの辺で終わりにします。またもっと勉強したら書きます。
 次回からは別のテーマで。まだ未定です。