アイデンティティ続々

 アイデンティティをまとう理由として、他者に自分を説明するためと定義したが、そのためには自分の中で消化されていなければならない。そうでなければ他者からの肯定や否定という考え方が成立しないからだ。例として適切でない気もするが、服を例にしてみよう。小さい子どもで親に着せられるままに服を着ている子どもは、その服を近所の人に「かわいいわね」と褒められてもうれしいとも思わないだろうし、貶されても不愉快にはおもわないだろう。一方で、自分で気に入って購入した服を褒められれば嬉しいし貶されれば不愉快になる。
 アイデンティティも同じようなもので、他者に他者に対して自分はこういう人間だと説明する一方で、自分の中でも自分はこういう人間なのだと思っている。つまり、言い換えれば、自分でそうだと思っている自分を他者に認めて欲しいということだ。

 さてアイデンティティについてなんとなく理解をしたところで、今度は他者との関わりにおけるアイデンティティの使い方を見てみよう。繰り返しになるが、他者に対して自分を説明するものがアイデンティティなのだから使い方もなにも使うに決まっていると言えばそれまでなのだが、人間は常に一つの集団に属しているわけではない(今後大学生を想定して論を進めていく)、ほとんどすべての人が属しているのは家族という集団。また学生ならば、クラス集団、部活・サークル集団。さらにいえばバイトの仲の良いメンバー集団。そしてややこしくなってくるのが中学・高校のクラス集団や、部活集団だ、何がややこしいのかは後に書くことにする。
 ここで、ひとつの疑問を投げかけたい。どの集団に属する自分も同じ自分だろうかということだ。当然、物理的に参加している自分は一人しかいないが、それぞれの集団ごとに“自分”というものを変えていないだろうか。もちろん、すべてのおいて一貫した“自分”を保っている人もいるだろうが、それは少数派だと思う。大半の人はそれぞれの集団で演じる役割は異なってくるだろうし、期待されている役割も異なっているはずだ。
 突然、「役割」という概念を登場させたが、この概念はアイデンティティと密接な関わりを持っていると思う。サークル内で盛り上げ役な人がクラスでは静かな人であることは想定されえることだ、特にクラスとサークルに共通の知人がおらず、クラスで目立ちたくないと思えばそうすることは容易い。ここで役割とアイデンティティとの関係に目を向けたいと思う。この人はどういうひとなのだろうか。一見すると、ノリの良い人と静かな人という相異なる性質を持ち合わせたひとのように見えるがそうではないだろう、あえて「クラスでは目立ちたくない」と書いたのだがお気づきだろうか。この人はサークルにおいてのみ自分が思っている“自分”が他者から理解されると思っており、サークルでは自分をさらけ出しているが、クラスでは“自分”が拒絶されることを恐れ静かにしているのだ。彼にとってクラスは居心地の良い場所ではないだろう。さらに例を続ける。先ほど「ややこしい」と書いたが、大学生の彼が高校の同級生に遭遇した時のことを考えてみる。彼も大学生だ、高校の時とは少なからず変わったことだろう。前回書いたように自分の能力の限界や新たなものと出会い価値観も変化したことだろう。そんな時、久しぶりにあった同級生に対して、一瞬戸惑いを覚えるはずである、なぜだろうか。それは高校生の時の“自分”が一瞬思い出せないからである。この人と自分の関係において、自分はどういう人間だっただろうかと。突然、いまの“自分”で接して受け入れられなかった場合、アイデンティティが否定された感じがするだろう、例えばこんなセリフだ。「あれ、おまえそんなんだったけ?」そこで、昔の自分を演じながら打ち解ける機会があれば徐々に“自分”出していきアイデンティティの承認を求める。
 こうした状況が、役割とアイデンティティの大きな関係だ。アイデンティティの範囲内で役割を演じることができれば問題はないが、役割とアイデンティティが重ならない場合には、その集団にいることに居心地の悪さを感じるだろう。

 あと1回くらいで結論に持っていけるはず!