アイデンティティ続×3

  さまざまな社会集団に属することで、アイデンティティを使い分ける必要性があり、居心地の悪い集団や積極的なかかわりを持たない集団では重要な役割を演じないということについては前回述べた通りである。さらにそうした居心地の悪い集団が、自己のアイデンティティを否定される可能性のある集団であることも述べた。
 ではそうした集団に属さなくてはいけない時というのはどういう時であろうか。それは、高校・大学への進学時、会社への入社といった新しい社会集団への参加の時である。自己のアイデンティティの基礎を形成していた時期をともに過ごした友人集団というのは、前回役割期待のところでとまいどいを覚える可能性があると述べたが、最終的にはお互いを受け入れる可能性が高い。しかし、ある程度形成されたアイデンティティをもって参加する集団では、その個人の経験とアイデンティティ形成についての共通の理解がなく、突然否定される可能性を秘めている。ここで、その人がその集団を居心地が悪いと感じて離脱してしまったり、積極的な関わりを拒否してしまうかどうかは、結局誰か一人でもその人のアイデンティティに対して共感をする人がいるかどうかということに依存する。アイデンティティは他者に対して説明するものである一方で、その説明を認めて欲しいと思うものだ。そのため、自分という人間がその集団において居場所を持つには誰か一人でも認めてくれる人がいて、その人とのつながりがなければ、アイデンティティ維持の危機を迎えてしまう。
 ただこれは、その集団が本来的には積極的に関わりを持つ必要がある集団であればという前提での議論だ。特に社会への参加という点に関して言えば、正社員もしくは非正規雇用であっても正社員に準ずる仕事として、集団にかかわりを持つ場合に限る。つまり、ある程度他者とのコミュニケーションを必要とし、そのためにアイデンティティの開示が必要とされるような集団である。一方で、派遣労働やパート・アルバイトのように一定の労働力の提供とその報酬のみで成立する集団への参加の仕方では、最低限のアイデンティティの開示のみで済む。どちらの集団参加の仕方であろうとも、共通して最も簡単なアイデンティティの開示は履歴書である。それは表面的であるにせよ、一定程度自分の情報について相手に説明し、相手もそこから社会で一般的に考えれるような性質を自分に対して“読み取る”。
 この“読み取る”という作業によるすれ違い、つまり自分が経験してきたことに対しての自分の評価と、他者が自分の経験に与える評価の差が大きければ大きいほど、他者とうまくやってけないと感じることにつながり、自分が高評価をしていること・重要だと思っている経験に対して、他者が低評価を下すことが、自己のアイデンティティが否定されたと感じることにつながるのだ。

 ちょっと最初に書きたかったこととずれてきたが、本を読んで知識を仕入れたところまったく誤りの結論に達しそうだったので軌道。次回は、経験の再評価の話につなげる。