アイデンティティ続Ⅳ

 予告通り、ずいぶん遅くなってしまったが少しだけ。
 今回は相手のアイデンティティを“読み取る”という作業の話を違う方向からのアプローチで。
 
 先日、本を整理していたら、『陽だまりの彼女』というライトノベルを発見した。最近書店に足を運んだ人なら一度くらいこのタイトルを目にしたことがあるのではないだろうか。平積みしている店もたまにあるし、店頭の棚に置いている店も少なくない。少し前だが、「今、女子が男子に読んでほしい本ベスト1」という謳い文句で売っていた。なるほど、しかし初版が出たのはすでに2年前。ボクが購入したのも発売して間もない頃だったが、平積みされるほど評価され始めたのは1年ほど前だった記憶がある。
 そう、なにが言いたいかというと、行為やその結果はすぐ評価されるに越したことないが、何年も後に評価されたり、もしくは再評価されたりすることも珍しくないということだ。これは、人の過去の経験にも適用出来ることで、過去に経験したあまり思い出したくもない記憶が、現在の状況から「経験しておいてよかった」というように再評価されることもあり得るということだ。
 この自分にとって良くないことだった経験、つまり当時はアイデンティティを否定されたような経験がのちに評価されるというのは、アイデンティティの形成にとって大事なことだと思う。
 それは何故か。繰り返しになるが、アイデンティティとは自分が思う自分であり、過去から一貫した自分という存在についての理解である。その形成の過程でアイデンティティが否定されるようなことがあってはならないのであり、自分という一貫した存在を守るためにはその経験は記憶の底にでもしまっておきたいものであろう。無意識のうちに忘れてしまおうとするかもしれない。そうして、抑圧したり忘却したりすることで、アイデンティティを守ろうとする。しかし、そのことを経験した瞬間(もしかしたかかなり長い時間を伴う経験かもしれないが)は確かに存在したのであって、その経験を抑圧することは自分の一貫性をも否定することになり、一貫した自分という感覚を失ってしまうことになる。つまり、その経験をするまでの自分(のアイデンティティ)と、それ以後の自分(のアイデンティティ)では同じ自分であり、そうだろうという感覚がありながら、確かに同じ自分(のアイデンティティ)であるとは言い切れないのである。過去とのつながり失うことで、アイデンティティの基盤が大きく揺らぎ、自分の存在自体が不確かなものとなってしまう。
 そうした無意識のうちに抑圧した良くない経験が(再)評価されるということは、単にその当時否定されてしまったという記憶が修正されるだけではなく、切断されてしまっていた自分と自分が再接続されるということに他ならない。つまり、抑圧されていた記憶も自分のアイデンティティ形成の中に必要なものとして再び取り込まれることで、その瞬間が自分の経験の中に“取り戻され”一貫した自分に修復される。この時の(再)評価は“読み取り”と同じことである。当時属していた集団では、アイデンティティを否定されるように“読み取られた”経験も、新たな集団では肯定的に“読み取られる”こともある。これは集団の成員がまったく同じならば起こりえないが、ある程度成員に変化があれば同じ集団でも起こりえることである。
 
 最初に、アイデンティティを定義する際に「自分で理解する自分という存在」ではなく「他者に説明するためのもの」と説明したが、それには理由がある。どちらも同等にアイデンティティというものを説明するものであるが、結局はアイデンティティというものは他者という存在なくしては必要のないものであるからである。

 では、次回でおそらく最終回!