大学生活

 明日で一応授業が一周し、そろそろちゃんと勉強モードに切り替えていかなければという状態です。
 最近やる気に満ち溢れていて、統計や経済の勉強をするために青チャートを買ってきて微積を勉強し始めてみました。

 いくつかの授業で英語の論文や文献を読む機会、というよりは課題なので読まなければいけませんが、知らない概念を英語で理解するというのは非常に困難で、読みながら自分のレベルの低さを実感しています。まぁしかし地道に読んでいくしかないのでしょうかね、もう少し優秀な辞書が欲しい今日この頃です。

 そして塾の方も、今年度はなにやらよくわからん授業をいただき、それの準備にも悩みがつきません。論理的に考え、文章問題を理解できることと、日本語をきれいに書けるようになるという2つの大きな目標を掲げ、そのためには何をしてもいいという自由な授業です。そもそもそんなことを意識して勉強したことないので、教材がよくわからずAmazonを探索し始めましたが、意外や意外世の中には同じようなことで悩んでいる人であふれているようで、今度はどれが使いやすいものなのか、理論だけにとどまらずある程度練習問題があって実践の中で使っていけるものなのかを判別するのに苦労します。とりあえず、いくつか自分で読んで見たり、解いてみたりしながらテキストを作っております。

 しかし、そんな学校の課題や塾の授業計画なんかは物理的にはけっこう大きな課題ですが、いま直面している一番の問題は、同回生とどう接していこうかということ。正直なところ、どうしていいかよくわからない。いわゆるコミュ力というやつが不足しているせいだろう。あー憂鬱だ。

ベランダ

春期講習もなんとかあと1コマ残すところとなり、次は授業のコマ埋めに頭を悩ませる時期となりました。とはいってもほとんど必修のようなものなのでほとんど埋まり、あとは趣味でなにを聞き単位に変えるのかということだけです。

それはさておき、ベランダ菜園(というほどでもありませんが)も、2年目を迎えました。昨年購入したイチゴの孫の代がベランダに植わっていましたが、寒さのせいか、日照のせいか、はたまたボクの世話がいいかげんすぎたのか、2株枯れてしまい1株だけ生き残り、現花を咲かせております。もう少ししたら1、2株買ってきて追加しましょう。そして、畑に移植した残りを育てていた芽キャベツがもう少しで花が咲きそうです。芽キャベツ自体は先日、シチューと鍋、それから豚キムチと堪能し十分満足しました。昨年、コジマさんに畑を誘われた時から目標であった芽キャベツを食べるということは、1つ1つは小ぶりでとても売っているものには遠く及びませんが、畑の収穫分とベランダの分でしっかり果たすことができました。さらに今日は、新たにミニトマトの種を蒔き、夏に向けて苗づくりのスタートです。

芽キャベツの花

 気づけばもう4月。時の流れに驚きつつ、怠惰な自分を反省しております。
 昨年は引っ越しの慌しさと仕事を辞めたことなどが相まって、すっかり心に余裕がなかったせいか気づきませんでしたが、疎水沿いに美しい桜並木が出来上がっておりました。いまの家を選んで良かったと初めて思いました。まだ肌寒い早朝、出町柳に向かう途中に鶯の鳴き声に誘われて見上げてみれば、それは見事な桜でした。花札では鶯といえば梅の木ですが、桜ともよく合います。できればその下で、花見で一杯と洒落込みたいところでしたが、残念ながら春期講習のまっさい中なので、後ろ髪を引かれる思いで京阪に乗り込みました。しかし、大阪も淀川沿いの桜は見事なものです。京都よりも若干暖かいためかちょうど見ごろでしたので、生徒にも気分転換に散歩でも行ってみましょうと話してみました。

 現状、春期講習4連勤でブログなど書いている場合ではなく明日の準備に奔走しなければならないのですが、やはり月の変わり目、そして年度の変わり目なのでもう少しだけ息抜きといきます。

 先月の読書記録の方から。先日書いた『潮騒』に続いて三島由紀夫は『金閣寺』を読みました。読み終わった後は何とも言えない感覚に陥りましたが、他の作品も手に取り三島という作家を知りたいと思います。それから、積み上げられた本の中から伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』(新潮文庫)、『陽気なギャングが世界を回す』(祥伝社文庫)、道尾秀介『向日葵の咲かない夏』(新潮文庫)、宮部みゆき『我らが隣人の犯罪』(文春文庫)、夏川草介神様のカルテ1〜3』(小学館文庫)です。伊坂、宮部の作品は割と新しい作品から手を付けていたのでそれぞれデビュー作を読もうと思い買ってみました。また『神様のカルテ』は映画化とやらで昨今やたらと取り上げられているので、1,2巻を古本屋で購入し読み始め、わずか4日間で3冊とも読み切ってしまいました。こういうことしているのでいま塾の準備に追われる羽目に陥るのですが、しかしそれだけの時間を割いた価値のある本だと思いました。映画は見たことありませんので、なんとも言えませんがストーリーの展開以上にボクの心を捉えたのは美しい文章でした。きれいな言葉遣いということではなく、情景描写が非常にきれいで臨場感に溢れ、時にはその空間にいるかのような錯覚に陥るほど(が、残念ながら京阪電車の車両にいることに変わりはありませんでした)ということです。正直映像化してしまうにはあまりにももったいない文章な気がします。あまり人に本を薦めたりはしませんが、これは一読の価値があるでしょう。

 もう2週間も前になってしまいますが、竹田城跡へと旅行に行ってまいりました。ついでに方向的にはだいたい通り道なので工事中なのも忘れて姫路城にも寄ってきました。さすが大河ドラマ効果といいますか、人であふれかえる姫路城でしたが、天守閣を拝めるのは来年の今頃だそうです。今回は周りを探索したので1年後の楽しみとして取っておきます。夜は兵庫県の中心あたりに位置する山間部の宿に泊まりましたが、鍋に日本酒と最高の夕食で酔っ払い残念ながらあまり記憶がありません。ただ、いさざ(通称しろうおというのでしょうか)の踊り食いという早春の風物詩をいただき、教養が増えた気がしました。翌日は早朝から竹田城跡に上りご来光を拝み、かえってきました。忙しい忙しいと言いわけしながらなかなか腰を上げないのが悪い癖だと昔から思っておりますが、この3月は割とアクティブな1か月だったと勝手思っています、出来れば一回くらいはスキーをしに行きたかったのですがそれはまた来年。


 さてさきほど忙しいと書きましたが、実際フリーターという身分であったボクにとって忙しいというのはただの虚構であり、勝手にそうしているだけのことでした。会社を辞めようと思った一つの理由に、生きるために働くのは愚の骨頂だという思いがあったからで、それを脱却するために自由な身分を手に入れたはずなのに結局気づけば場所は変われどやっていることは一緒。塾は自分の勉強にもなっているが、スーパーの方は完全に違う。学費をためるという当初の目的はとりあえず達成したので、もうこれ以上働き続けるのは惰性に任せた思考停止状態に陥ることになるので可及的速やかにやめることにしようと決めました。

 そろそろ真面目にテスト作ります。

入学手続き

日記を書こうといざ開くとなんだか書くことに詰まってしまう。
先日実家に帰って、その初日は、高校の後輩の演劇を見に行ってきた。毎度案内をもらいながら会社に行っているときは残念ながら予定が合わず、京都に戻ってきてからも時間がなく今後も予定が合うかどうか分からない中で今回はチャンスだと思い、腰を上げてみた。ストーリー性のある劇ではなかったので、まぁ感想も何もないのですが、おそらく最も正しい感想は「面白かった。」という一言に尽きるでしょう。その劇団の公演に定期的に通っているような人からすれば、いろいろあるのかもしれませんが、まぁそんなこともないので、わざわざ帰った価値はあったのではないでしょうか。ストーリーが特にないという点においては普段から私の主張する想像力ということに関連するのではないかと劇を見ながら勝手に考えていました。寺山修司脚本といってもいいのでしょうか?劇団の歴史的変遷はネットを見ただけではいまいち分かりませんが、劇中では彼の思想(を解釈したもの)が2時間弱という時間で表現されています。ただ行くだけではつまらないしと思い、前もって彼のエッセイ集をちょっとばかり読んだのですが、まぁ意味不明で理解できませんでしたけど(選んだものが悪かったのかもしれませんが)ね。けれどもこれをきっかけにしてもう1度別の本にチャレンジしてみようかなと思ったので、また本の山が高くなることは間違いありません。

2日目。片倉さんと杉山さんと飲みに行ってきました。
彼らのような人間がいま現状で僕の近くにいないことが残念でなりません。大学生の頃は、飲み会に行けば非常にくだらないことでも話をしていた気がしますが、社会人になって以降そんな機会がほとんどなくなりました。そういう意味ではこの3年間は非常に無駄な時間だったと言えるでしょう。4月以降そんな状況が改善されることを祈るばかりです。さてさてお二人に紹介していただいた本をその飲み会中に注文しておいたので、すでに手元にあり読まれる順番を待っています。感想はいずれ書くとして、とりあえず片倉さんの話していた動画(http://m.youtube.com/watch?v=PnVBwrXA990)のほうを見てみたがなんとびっくり45分英語で読みにくい日本語字幕付き、なかなかのハードな内容だけに結構苦しみましたし、若干意味わからなかったのでまた見ます。

最後に、昨日で震災から3年ちょうどでした。被災地では復興がまだまだ進まないようですが、僕にできることといえば募金くらいなのでコンビニとかでたまに募金しています。それに比べて、僕にとってこの3年は非常に変化に富んだ3年でありました。まだ覚えていますが、震災の日は新谷家で鍋をしていました。彼の家でテレビを見ながらその様子に衝撃を受けたことを覚えています。映画でもやっているかと思ったほどです。その1年後は新店の立ち上げのメンバーとして選んでもらい、さらに1年後はニートとして京都に舞い戻ってきました。そして現在、明日には入学手続きを終え4月からは再び大学生です。先ほども書きましたが、3年間が無駄だったどうかは今後の僕の生き方次第なのかと思い込んでいるので、まぁあまり深く考えていません。

ではおやすみなさい。明日は久しぶりに雨ですね。

図書館

今日は昼から図書館に行ってきた。ほんとは朝から行く予定だったのに、起きたらなんと真昼間。近所の猫がにゃーにゃーと泣き喚いていた。
死のテーマについてもう少し深く掘り下げるべくその辺の本を読んできたので、また後日まとめたいと思います。今回は、自殺についての著作を読んでいるうちにふと三島由紀夫の名が頭の片隅をよぎったので、そういえば読んだことないなと思い読もうと思い立ちました。蔵書検索で探してもあまりにも多くの作品が出てくるので、ヤフー知恵遅れでおすすめを探してその中から1冊を読みました。『潮騒」(新潮社)。戦後の作家なだけあり文体は読みやすく特に止まることもなく読み終えました。心のうちになんとなく偏見を持っていましたが、好みの作家かもしれません。

現代の作家の話は基本的に会話を中心として進行するため読みやすいんだと先日母親が言っていました。昨日の話に続きますが、日常的に読書に勤しまない人がある日突然難解な文章で構成された本を読んだとしてもその内容を理解するには遠く及ばないでしょうが、しかし「 」を中心にそして同じことが何度も繰り返されればそれは次第に絵のない漫画へと近づいていき、深く脳を働かせることなく視覚的・直観的に理解をもたらすことになる、それがいわゆるライトノベルというジャンルでしょう。そしてそれでも理解できない人のために漫画化・映像化という手法がとられてしまう。
いまや知らない人はいない程の作品になった『永遠の0』がここまでヒットしたのもこうした影響があるのではないかと思います。百田氏を批判するわけではなく、どちらかというと彼の作品は面白いと思いますが、彼の作品の書き方がヒットの要因ではないかと。いまこういう情報が欲しいな、あれを知りたいな、という読者の欲求を適度に満たしつつ、テンポよく進んでいくあたりが大衆に受け入れられたのではないかと思います。そしてあんだけわかりやすい文章であるも関わらず、先日コンビニで漫画を見つけた時には衝撃が走りました、という話。

さて本日は新しい勝手に連載シリーズを始めようと思います。
この話は先日の追いコンに端を発したもので、IPS細胞はSTAP細胞のような昨今の医学の進歩はますます人間の寿命を延ばすことになるでしょうし、そうなると死というものの考え方が変わってくるのではないかという酔っ払いの発想です。
昔から多くの作品で長寿・不老不死というテーマは描かれてきましたが、現実の人間が思い描いているようなハッピーエンドでは終わらず、不老不死をむなしいものとして描いている作品が多いような気がします、まだ不老不死を手に入れた人間がハッピーエンドで終わる作品に出会ったことがないのでかなりの偏見かもしれませんが。

書こうとしていたことわすれた・・・。
次回に続く。

ひな祭り

明日はひな祭りですね。特に関係ありませんが。

さてさていつの間にか2月が終わってしまい、今年も6分の1が終わってしまいました。なんだかあんまり勉強せずに本ばっかり読んでいた気がします。前回のブログから読んだ本と言えば、『模倣犯3~5』(新潮文庫宮部みゆき)、『舟を編む』(光文社・三浦しをん)、『博士の愛した数式』(新潮文庫小川洋子)です。合計で12冊、読書キャンペーン開始から5か月で初めて月10冊を突破できましたが、暇を持て余していないとなかなか厳しい目標だったと実感しました。
本日の話題はそんな読書のことを。ニュースによれば、大学生の平均読書時間が約27分、読書時間0がなんと4割もいるらしいですね。(参照ソース:http://www.j-cast.com/2014/03/02197896.html)それを聞くとうちのどうしようもない妹もまだましなほうだと思えてきてしまいました。
まぁ本だけ読んでいればいいわけではないですが、これでは想像力も育たないですよね。まぁその話題は以前にも書いたので深くは書きませんが。

一方でただなんとなく読書をすればいいわけでもないのは言うまでもありません。英語の問題集でよく見る例文はまさのその通りであり”It is not what you read but how you read it that counts.”、さらに先日読んだショウペンハウエルの『読書について』では、「読書は、他人に考えてもらうことである。…(中略)…多読の結果、愚者となった人間である。…(中略)…絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。」と。
別の角度から、大人になれば大人になるほどテストをして丸をもらうことが少なくなってきます。特に現在のようにある特定のコミュニティに属していない自分にとっては明確な丸はなくても、同様に明確なバツもほとんどありません。そんな生活では、私も読んだもの(知識と呼べるようなものではありませんが)を使う機会がなく、脳を生産的に使えなくっているのではないかと危機感を覚えています。